党史
母体となったのはドイツ内戦にて反政府派として活動した全ドイツ共産党とドイツ共産党に中部ドイツを拠点としゲリラ活動を繰り返した統一共産主義戦線である。
結党後は中部ドイツの独裁政党となった。内戦終結後すぐにはドイツ社会主義改革党やドイツ民主社会党など社会主義政党によるドイツ民主共和国連邦への合流を訴える合流派が圧倒的多数を占めたもののドイツ内戦の終戦条約であるベルリン大和平条約にて合流を禁じられていたことから合流は叶わなかった。その後ドイツ民主共和国連邦にて社会主義独裁が色濃くなると非主流派であったワイセンバル・ヴィッヒやデルミア・ルクセンブルク、ボーデンボルグ・ギースターなどが亡命したことにより世論が反合流に傾き、党内でも次第に反合流派が勢力を増していった。
そして1945年11月28日に反合流派であるウィヒルム・バーデンボングが党評議会委員長に就任したことにより合流派は完全に少数派に転じ、以後国家方針として独自路線を歩むことになった。
1951年には中欧独立インターナショナルを新設した。
その後はロゼル・ヴァイハリンを代表とする党左派とイルーガ・ラスヴァトを代表する党右派、エハルツ・イッテルヒンを代表する自由派の3派による勢力争いが激しくなり1969年には国家評議議会委員選挙において党内分裂により約50年振りに自由選挙が行われた(中部ドイツ人民共産党の候補者のみであったが、自由派、右派、左派の候補が多くの選挙区で並立した。)