最終更新: kagatosa27 2021年04月06日(火) 21:20:27履歴
この記事は、歴代日本連邦内閣総理大臣についての一覧記事です。
代数 | 名前 | 名前読み | 政党 | 就任日 | 退任日 | 備考 |
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国老 | ||||||
初代 | 武田元秀 | たけだもとひで | 無所属 | 1782年9月10日 | 1783年7月14日 | 若狭武田家当主 |
2代 | 十四条清麻呂 | じゅうしじょうきよまろ | 無所属 | 1783年7月14日 | 1786年7月13日 | 貴族 |
3代 | 1786年7月13日 | 1788年3月4日 | ||||
- | 浅井時長 | あざいときなが | 無所属 | 1788年3月5日 | 1788年4月2日 | 浅井家の支流、大和浅井家当主 |
国民議長 | ||||||
初代 | 浅井時長 | あざいときなが | 無所属 | 1788年4月3日 | 1801年7月21日 | |
総務大老 | ||||||
- | 浅井時長 | あざいときなが | 無所属 | 1801年7月22日 | 1801年7月24日 | |
初代 | 鳥束正頼 | とりつかまさより | 水曜会 | 1801年7月25日 | 1801年12月24日 | 就任期間は半月にも満たないが、日本連邦史上初の平民階級出身大老となった。 |
2代 | 八中正海 | やつなかまさみ | 無所属→国民国家連合 | 1801年12月25日 | 1803年6月17日 | |
3代 | 長曾我部満親 | ちょうそかべみつちか | 国民国家連合 | 1803年6月18日 | 1805年7月24日 | 土佐の大名長曾我部家当主 |
4代 | 1803年7月25日 | 1807年7月21日 | ||||
5代 | 魚住景常 | うおすみかげつね | 国民国家連合 | 1807年7月22日 | 1809年2月18日 | 魚沼家は代々朝倉家に仕える重臣 |
6代 | 山崎吉規 | やまざきよしつき | 国民国家連合 | 1809年2月19日 | 1810年10月11日 | 山崎家は朝倉家重臣 |
7代 | 1810年10月12日 | 1812年4月16日 | ||||
8代 | 1812年4月17日 | 1814年8月2日 | ||||
9代 | 1814年8月3日 | 1816年9月18日 | ||||
内閣総理大臣 | ||||||
初代 | 多気勝信 | たけかつのぶ | 国民国家連合→国民国家統一党 | 1816年9月19日 | 1817年2月19日 | 初代内閣総理大臣にして久しぶりの平民階級出身者。こちらも就任期間は短かった。 |
2代 | 糸部成満 | いとべなりみつ | 国民国家統一党 | 1817年2月20日 | 1818年10月8日 | 所謂吏党(国国連→国国統)を与党にした最後の内閣総理大臣。第11回民衆立法府議会議員選挙で大敗し退陣 |
3代 | 齋藤逸己 | さいとういつみ | 国民自由党(1819年〜1830年) | 1818年10月9日 | 1821年6月28日 | 史上初の民党を与党にする内閣総理大臣。 |
4代 | 1821年6月29日 | 1824年3月16日 | ||||
5代 | 中里弘毅 | なかさとひろき | 王民同志会 | 1824年3月15日 | 1828年7月16日 | 選挙無しの首相交代 |
6代 | 1828年7月17日 | 1830年9月2日 | ||||
7代 | 大野繁三郎 | おおのしげさぶろう | 国民民主党 | 1830年9月3日 | 1831年3月4日 | 大野は農務大臣、内務大臣、大蔵大臣、外務大臣を歴任したベテラン政治家。このような大臣就任歴のある人物が内閣総理大臣になるのは初めて。 |
8代 | 西山興三 | にしやまきょうぞう | 社会会 | 1831年3月5日 | 1831年12月4日 | 史上初の左派内閣総理大臣。野党の反発は強く、12月に再選挙。 |
9代 | 1831年12月4日 | 1832年6月10日 | 再選挙に勝利した後穏健化したもののそれが裏目に出て与党左派から非難を浴び退陣 | |||
10代 | 橘花立香 | きっかたつか | 自由連合 | 1832年6月11日 | 1836年5月20日 | 左派連立内閣内で誰を総理にするかで紛糾、その為前回選挙時左派連合の象徴であった橘花が総理大臣となった。世界初の女性内閣総理大臣である。 |
11代 | 自由連合→無所属→社会連合 | 1836年5月21日 | 1842年7月14日 | 自由連合分裂時、橘花は中立し無所属になった。その後国民大衆党の容認のもと社会連合に入党した。 | ||
12代 | 西山興三 | にしやまきょうぞう | 社会会 | 1842年7月15日 | 1845年2月19日 | 再就任。今度は従来通り党内の左派強硬派として振舞ったもののその強硬的すぎる政権運営に党内穏健派などが反発。内閣支持も落ち込み退陣。 |
13代 | 不破伝藏 | ふわでんぞう | 立国党 | 1845年2月20日 | 1846年7月15日 | 西山退陣後、社会会の党内紛糾より連立与党立国党党首の不破が就任した。 |
14代 | 飛岡達文 | とびおかたつふみ | 社会会 | 1845年2月21日 | 1848年8月31日 | 社会会穏健派。中道や野党政党との歩み寄りを行ったものの逆に連立与党の立国党、社会本党と対立し、立国社会本両党の連立離脱を招き、その責任をとり辞任。 |
15代 | 橘花立香 | きっかたつか | 社会連合 | 1848年9月1日 | 1850年2月18日 | 再就任。与党調和のシンボルとして就任し、実際支持率は飛山の時より上昇したものよ焼け石に水で、選挙に大敗した。 |
16代 | 倉橋護久 | くらはしもりひさ | 日本民主党 | 1850年2月19日 | 1856年9月4日 | 日本民主党初の内閣総理大臣。 |
17代 | 1856年9月5日 | 1858年7月16日 | 2期目。58年選挙前与党議員の1部が他党に入党するなど足並みが乱れた。 |
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